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DKNYダナキャラン

DKNYダナキャラン
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       DKNYの育ての親

 ダナ キャランは、アメリカ人デザイナーの第一人者であり、ラルフローレン、カルバンクラインと並んで、ニューヨークの息吹を伝える3大ブランドを形成しています。ダナ キャランは、女性デザイナーであるだけにシルエットが美しく、主にエグゼクティブ・ウーマンをターゲットとしながら、機能性と官能性を兼ね備えたデザインをそろえています。

 衣装のシルエットは見る角度に応じて人間の立体的な体型の輪郭を示してくれます。ニューヨークのストリートを歩いて、ふと、見上げた摩天楼の影が青い空を背景に浮かび上がってきます。光と影との効果によりスポットライトのあたる舞台に立ったデザイナーも、人生の特徴であるプロファイルを暗示しています。光があたる成功の背後には、それをサポートする人がいます。滝富夫氏は、Manage「ダナキャランを創った男、滝富夫」(伊藤 操 (著) )にもあるように、DKNYの育ての親です。滝さんは「服をディスプレイする時も影をつけなければ立体感が出ないし、いい服に見えない。人の人生も同じだ」と語っている。(ゴールドマン・サックス・ジャパン・ホールディングス 人事部 ヴァイス・プレジデント 福本 多起さん)滝さんの人生も、苦労が多く、それがの衣装のシルエットのように人生に立体感を与えるものと思います。

 伊藤操さんのレポートによると、ニューヨークのファション界では、伝説と人である滝さんの原点となるのは、全てに自分が正しいと思う方向に突き進む行動力と消費者第一主義のホスピタリティであるようです。「まずは、“やりたい事をやるべき”である。自分がいいと思ったことをやる。私が常々話していることなんだが『不便な事を解決することがクリエイティブな事につながる』。」と語っていました。ポイントとして「消費者のニーズを汲み取ることが大事。困ったことには答えがあるものだ。そして、答えを求めるだけではいけない。」と語る。「問題・疑問がないと答えが出ない。」 常に探究心をもたないと結果には辿り着けないのだ。そこで、探究心を持てるための訓練としての連想方法を教えてくれた。今の考えや方法が間違えだと考え「だったらどうしたらいいか?」「他にはどんな方法があるか?」などを考える方法。このように何事にも追求していく思考や行動こそ、世界を股に掛けて仕事をしていくうえでの基盤になるものだと感じた。

 現在、タキヒョーは、アパレル分野とテキスタイル分野の2本柱の事業からなり、人気ブランドを多く持つアパレルアパレル商社で、単体で、09年2月(07年)で、売上げ約733億円(約810億円)、経常利益15.7億円(31.6億円)の業績です。タキヒョーは、大正元年五代目瀧信四郎、「株式会社滝兵商店」として設立されました。さらに遡れば、宝暦元年(1751年)初代兵右衛門、古知野(現愛知県江南市)にて京呉服・絹卸商「絹屋兵右衛門」を開業をし、天宝8年 二代目瀧兵右衛門、天宝の大飢饉において窮民救済の功により、藩主松平公より苗字帯刀を許され、尾張藩御用達商人となっています。明治8年四代目瀧兵右衛門が名古屋(御幸本町4丁目)へ進出して、名古屋の経済界の基礎となる名古屋銀行(後、東海、三菱東京UFJ銀行)の設立に加わり、頭取となっています。

 タキヒヨーの7代目 滝富夫は、御曹司として、高度経済期までに、当時の呉服問屋を近代的繊維商社に変える事に成功しました。慶應義塾大学卒業後、ハーバード大学ビジネススクール高等経営科を修了して、伊藤忠商事株式会社を経て、タキヒヨー株式会社に入社しました。入社10ヶ月の時、父死去により26歳の若さで社長就任しまた。滝はタキヒヨーの社長として様々な改革をし、30億円のビジネスを800億円にまで成長させました。1969年には、コンピューターを導入し、コンピューターの本格使用を開始し、1973年に、ニューヨーク、ソウル、台北に、進出しました。タキヒヨーは、1973年9月に名古屋市中区丸の内に完成させた地上25階(高さ約86メートル)のビルは、名古屋で最も高く、「タキヒヨービル」として栄華を誇ったが、早すぎた天才と言われた滝富夫さんは、繊維不況とオイルショックで名門企業が経営不振となり、挫折した経験があります。オイルショックで、40億円の赤字を出して社長を退陣しました。奥さんは自殺してしまう。だが、その後はアメリカに居を移し、双子の息子を再出発させました。

 生活に余裕ができて、「大量生産志向」から「個性重視」の消費者が増加して、個性的なものを大量生産する問題に直面し、海外を回り、市場調査を行いました。アメリカの百貨店でデザイナーズスポーツウエアで、現地の女性に自分が着たいいくつかのブランドを選出して、「アンクライン」の会社にであった。デザイナーのクラインは「私はトップス&ボトムスの組み合わせを経験から生み出した。非常に面白いから私たちのパートナーになって欲しい」という声がかかり話が進んでいった。まずアンクラインを50%を買い、1975年に日本のタキヒヨー社がアンクライン社を買収した。デザイナーのアンクラインがなくなり、ブランドのデザインは、ダナ・キャランなどが引き継ぐことになった。

滝さんから4つのベンチマークからダナ・キャランがチーフデザイナーに抜擢しています。
<1>色のセンス → 「百貨店で一番先に目につくもの」
<2>素材の知識 → 「手触りで確認する」
<3>コスチュームデザイン → 「デザインを確認する」
<4>FITTING → 「試着してみる」※一番大事な購入決定のポイント

 ダナ・キャランは、仕立屋の父とモデルやブティックの店員をしていた母に育てられ、自然とファッションセンスを身につけ、パーソンズ・デザイン学校に在学中に「アン・クライン」のアトリエに実習生として採用され、アシスタントデザイナーを務める。80年代初頭から、キャリアウーマンをターゲットに、常に男女の融合を目指しつつもシャープでセクシーな、洗練されたスタイルを提案してきました。シンプルで洗練されたデザインは、キャリア・ウーマンの間で評判となり、経済的に余裕の出てきた自分と同世代(ベビーブーム世代)の女性のニーズを巧みに取り入れることに成功する。つまり、自分がクローゼットを開けたときに、足りないと感じたモノを、次のシーズン向けにデザインする。この発想は自分達世代の女性から圧倒的な支持を得た。スタイリッシュかつシンプルなデザインが特徴の、90年代トレンドの先駆けとなった。


 80年代中期になると、ダナ・キャランが『自分のブランドをやりたい』という意思表示をするようななった。「君はクビだ。荷物をまとめて出て行け。月曜日からは私(滝会長)の部屋の隣の会議室に来い。一緒に会社をやろう」そして、滝会長の後押しによりブランドを立ち上げることになる。85年、夫であるワイスと共に、タキヒヨー社の資本によりダナ・キャラン・ニューヨーク社を設立し、「自分と家族のための服」をコンセプトとする「ダナ・キャラン・コレクション」を発表した。その機能的でセクシーなスタイルに「ダナ・キャランはファッションの歴史を作った」と賞賛されることとなる。

 01年、ダナ・キャランに転機が訪れた。ダナと夫ステファン・アイス夫妻による経営を諦め、会社をLVMHに、売却してデザインに注力できるようになった。その後、個性を表現したいキャリア・ウーマンをターゲットに、シャープで洗練されたスタイルを提案した。彼女自身がキャリア・ウーマンであり、彼女がターゲットにした顧客たちと同世代で、洗練されたイメージがあった。「仕事先からパーティーに直行してもいい服」という理念の下に創作され、ニューヨークのエグゼクティブキャリアに絶大な支持を受けた。女性を美しく見せるシンプルで機能的なラインは、今もなお、多くの女性から支持され続けています。ターゲットは女性だけでなく、女性のライフスタイルに欠かせない「家族」のためのウエアをデザインし、幅広い客層に支持されている。

 日本がバブルで浮き立っていたころは、デザイナーズブランドは、飛ぶように売れました。しかし、消費が低迷している現在、顧客は自分の欲しいものしか買わなくなっています。製品のクオリティだけでなく、売り方も工夫して、積極的な販売戦略を展開しなければ生き残れない時代が到来したのです。

  女優で歌手でもあるヒラリー・ダフが「DKNY ジーンズ」とコラボレーションし、自身がデザインするライン「Femme for DKNY Jeans」を立ち上げています。ダフは「自分が持っているファッションやデザインへの興味を追求しようと思ったの。洗練された、ワンランク上のコレクションを目指したわ。 DKNYジーンズは昔から大好きでよく着ていた。どんなものが良いのかわかっていたから、デザインを見せ合ったらすぐに意気投合したのよ。私のような若い女の子達のために何か特別なものをデザインしようという考えが一致していたの」
 DKNYジーンズのKevin Monogue社長は、共同デザインはとてもスムーズに進んだ。彼女は流行の最先端にいる。フェミニンで個性を残しつつも、大胆で実験的なやり方でトレンドを解釈していくデザインは我々のブランドが持つ感性にピッタリだった」と語る。


1966年 - アン・クライン社にデザイナーと入社
1974年 - アンの死去に伴い、ルイス・デロリオとコデザイナーに抜擢。
1977年 - ルイス・デロリオと共にコティ賞受賞。
1981年 - 再びコティ賞を受賞。
1985年 - デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。
1988年 - DKNY(Donna Karan New Yorkの略称にちなむブランド)創設。
1990年 - 再びデザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。DKNY JEANS創設。
1991年 - DONNA KARAN MEN創設。
1992年 - メンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤー受賞。DKNY MEN創設。
1997年 - ウィメンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。


『一見、華やかなファッション界ではF*CKという、4文字言葉が飛び交うえげつない世界でもある。感情的な人が多く、競争の激しい世界で生き延びて行くには、4文字言葉を吐きたくなることもあるのだろう。ある時、ダナ・キャランの会議が白熱してきて、4文字言葉が飛び交い始めた。すると、滝は黙って席を立ち、会議室から姿を消した。会議室にいた人達は、洗面所にでも行ったのかと思ったが、それにしては長すぎるし、何も言わないのも変だと思い、怒鳴り合うのを止めてしまった。すると、滝は何食わぬ顔で会議室に戻って来た。そして、会議は平穏に進められた。滝が一緒になって怒鳴れば、火に油を注ぐようなものだ。滝の無言の行動は、どんな言葉よりも説得力があり、さらに滝への信頼感を高めることになった。滝は無言と怒鳴ることを、巧みに使い分けていたのだ。直ぐに怒鳴り合うニューヨーカー達にとって、滝のこうした行動は新鮮であり、また神秘的ですらあった。ダナも4文字言葉を吐くことがある。「レディなんだから、そんな言葉は使うものではない」と、滝は娘を諭すように言ったこともある。だが、ダナはまるでダダッコのように4文字言葉を使い、「会社を潰しそうになった人の、言う事なんて聞かないわ」と、滝の弱みを突くこともあった。投資した相手から過去の挫折を言われるのは、なんとも辛いものには違いないが、滝はそうした暴言に対しても、もろに感情に表したりしない。ダナも落ち着けば「トミオ!トミオ!相談があるの」と、甘えてくるのだ。感情の揺れが激しいクリエーター達と、一緒に仕事をするのは並大抵ではない。ニューヨークで一筋縄では行かないクリエーター達と仕事をするなかで、滝は自分の感情をコントロールする業を、自然と身につけていた。』
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Kimiko Tomimoto

滝富夫さんは昔からそう言う人でした。
喧嘩は片方が賢くあれば成り立たない[exclamation]と。
by Kimiko Tomimoto (2016-06-26 15:26) 

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