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インスパイア:鼓舞


http://www.youtube.com/watch?v=5pJcwnS1c0I
Invictus (不屈の人)の詩- William Ernest Henley (by Alan Bates)
http://www.youtube.com/watch?v=dLhaN26paaU
Invictus(負けざる者たち) 映画のシーン

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 人生の舞台で人の心を揺り動かし、鼓舞する言葉があります。 William Ernest Henley のInvictus (不屈の人)の詩は、ネルソン・マンデラを支えたそうです。その詩で、「・・・・・I am the master of my fate:I am the captain of my soul.」とあります。これは、中国の禅の臨済録にある「随所作主 立処皆真」(随所に主となれば、立つところ皆真なり)言葉と近い境地になります。その状況において主人公として行動すれば、その行為はすべて真実である。

 過酷な運命に置かれたときに、人間は高い精神の境地に到達します。西郷隆盛は、35歳の頃、文久2年(1862)、島津久光の怒りにふれ沖永良部島へ流罪となり、1年6ケ月牢獄生活を送ります。過酷な牢獄で正座して精神を練磨し、「敬天愛人」(天を敬まい、人を愛せよ)という境地に辿り着きます。 同じにように、ネルソン・マンデラはケープタウン近くの海上にあるロベン島に反体制活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、虐待と労働の日々の中で、William Ernest Henleyの詩が心の支えとなります。彼自身は、「勇者とは、何もおそれない人間ではなく、おそれを克服する人間のことなのだ」。「楽観的であるということは、顔を常に太陽へ向け、足を常に前へ踏み出すことである」ともいっています。
 
 1994年に南アフリカ共和国で初の黒人大統領となりました。。新しく大統領となって、先ず、白人のスタップを辞めさせずに、むしろ積極的に協力を得ながら、黒人のスタッフとの融和をはかります。白人に代り、黒人が政権をとったことで、心理的には、白人へ報復が行われる可能性がありましたが、これ以上、黒人と白人との分裂を大きくすると、国家が分裂しかねないので、ネルソン・マンデラは国を統合する機会を探します。ラグビーワールドカップもその一つです。

 ラグビーワールドカップ代表「スプリングボクス」(Springboks)の実話にもとづいた映画『インビクタス/負けざる者たち』があります。ネルソン・マンデラと、キャプテンのフランソワ・ピナールの交流を通じて、1995年同国のラグビー代表がラグビーワールドカップにおいて快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たし、全南アフリカ国民が見守るなか、強豪ニュージーランド代表オールブラックスを破ります。1995年にラグビーワールドカップが南アフリカ共和国で開かれることになっており、ネルソン・マンデラは、ラグビー代表「スプリングボクス」を上手く利用して、南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になることを思いつきます。南アフリカ代表のラグビーチームは当時低迷期にあり、アパルトヘイトの象徴として黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツでした。

 南アフリカの新生スポーツ評議会(非白人中心)が、スプリングボクスという呼称とエンブレムとグリーンとゴールドのジャージを変更する予定でありましたが、マンデラは「スプリングボクスは彼らの宝物なのだから、それを取り上げてはいけない。憎しみを捨ててかつての敵を赦すこと。愛を持って一つの国家を建設すること。」といって、チーム名とユニフォームの存続を求めて周囲を説得します。また、チームの主将フランソワ・ピナールを茶会に招いて言葉を交わし、励しました。主将フランソワ・ピナールがネルソン・マンデラと交わした言葉から、ワールドカップで優勝することを期待されていることを知ります。キャプテンとしてチームをまとめるために、Invictus の詩「・・・・・I am the master of my fate:I am the captain of my soul.」と同じようにチームを鼓舞することを考えます。ラグビー代表がオールブラックスを負かすことは予想外の出来事でありましたが、彼のチームはやってのけます。
 
 ラグビーでは1995年にも、ラグビーワールドカップを開催し、開催国優勝を果たし、2007年のフランス大会でも優勝するなど、世界トップクラスの実力を持っています。2010年にはアフリカ大陸初となるFIFAワールドカップが南アフリカで開催されてました。サッカーは黒人中心のチームですので、国として熱気は大きかったような感じします。サッカーについて、次の本が詳しいようです。

 「サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち 」チャック コール, マービン クローズ , Chuck Korr , Marvin Close , 実川 元子
 何千人もの政治囚がケープタウン近くの海上にあるロベン島内の刑務所に収容された。虐待と労働の日々の中で、受刑者たちはシャツを丸めて縛ったボールを蹴りあう遊びを始め、収容棟はしだいに活気づいた。彼らは本格的にサッカーを行うことを望み、団結して刑務所側に要求し続け、ついに許可を得る。それが権利獲得の第一歩だった。チーム結成後、リーグ戦を開始。サッカー協会を設立して審判委員会まで発足させた。受刑者たちは身体を鍛え、戦略を練り、組織づくりや交渉能力を身につけていった。いつか自分たちの闘いが南アフリカに自由をもたらすと信じて、苦しい獄中生活を生き延びたのだ。番号で呼ばれる存在でしかなかった受刑者たちは、サッカーによって自尊心を取り戻し、名前のある一人の人間として認められるようになっていく。後に彼らは新生南アフリカをつくり、運営する重要なプレイヤーとなる。

 「アパルトヘイトは、根が深い問題」
 南アフリカは、ネルソン・マンデラ(新大統領)とレデリック・ウィレム・デクラーク(元大統領)と対話して、アパルトヘイトがなくなりました。元大統領の果たした役割も、決して忘れてはいけません。ネルソン・マンデラは、過去の過ちを許す政策を打ち出していろんな改革を進めますが、アパルトヘイトの後遺症で、経済、政治も、うまくいっていないように、思えます。教育水準格差により、人種間で失業率の格差が生じたり、エイズの蔓延によって国民の約4 - 5人に1人の割合でHIVに感染している。アパルトヘイト廃止後に起きた失業問題により、南アフリカでは急速に治安が悪化して、安心して過ごせる国ではないような気がします。

 アパルトヘイトは、南アフリカで人種隔離政策で、白人、カラード(混血を含む)、アジア人、黒人の人種によって差別がありました。1948年に法制化され、以後強力に推進された。例えば、黒人は白人が経営する農園や工場で働き、給料は白人の10分の1以下であることもままあり、住む家も、空き地に粗末な小屋を立てて生活する人たちも多勢いました。

 デクラーク大統領になって、1990年 2月、アフリカ民族会議(ANC)やパンアフリカニスト会議(PAC)、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていました。

 1994年4月に全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定され、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全に撤廃されたのである。マンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めました。アパルトヘイトは、根が深い問題で、その問題がなくなるには、次の次の世代かもしれません。

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